今世紀最大の悲劇:9,000億円以上の巨額損失、事業売却が続く
10年使っても壊れないノートパソコンといえば、どのメーカーを思いつくだろうか?
デル? アップル? レノボ? 答えはどれでもない。
その代わり、あなたが使っているエレベーターに表示されるロゴは「TOSHIBA」だ。

2013年に購入した東芝のパソコンを修理に出したところ、「メモリを増設すればあと5年は戦えますよ」と言われた人もいる。
もちろん東芝は他の分野でも他社の先を行っていた。
世界初のノートパソコン、日本初の電球、世界初のトランジスタテレビ、世界初の冷蔵庫、世界初のDVDなどなど。
福島第一原子力発電所の設備も一部は東芝製だ。
今の中国の若い人たちにとって、東芝のイメージはテレビ番組の「東芝動物楽園」であり、一部番組内のショッキングな内容は、80年代以降の多くの子供たちに大きな影響を与えた。

全盛期の東芝は18万人の従業員を抱え、日本の製造業の象徴だった。
しかし、そんな優れた製造会社が事業を「切り売り」するところまで来てしまったのだ。
日本が誇る世界ナンバーワンの企業が、自らの手で死へと引きずり込まれたことは残念でならない。
電球に支えられた創業100年の企業
路面の小さな店舗から世界ナンバーワンへ
東芝の凋落が嘆かわしいのは、それまでが強すぎたからだ。
東芝は、中国のファーウェイや韓国のサムスンに相当する「日本の象徴」と呼ばれていた。

1875年に創業した東芝は、146年の歴史を持つ、まさに100年企業だ。
東芝の前身は小さな路面店だった。1875年、75歳の発明家、田中久重が銀座に時計店を開き、製品を発明しながら販売も行う、前世紀の「手工耿」のようなものだ。
当然、小さな発明だけでは財を成すことはできず、1890年には、同じく製造業の中心的人物である藤岡市助、三吉正一と共同で「白熱舎」を設立し、日本初の白熱電球を製造して、日本にその名を轟かせることに成功した。
順調なスタートを切った東芝は、数々の「日本初」を実現した日本が誇る製造業だった。
日本初の扇風機、洗濯機、冷蔵庫、レーダー、トランジスタテレビなどはすべて東芝製である。
東芝は日本で有名なだけでなく、多くの世界初のものを発明してきた。
世界初のカラーテレビ電話、世界初のNAND型メモリーカード、世界初のHD DVDプレーヤー、世界初のCD-ROMベースのファイル生成システムなどは、すべて東芝製である。

また、1985年には世界初のノートパソコンを発明し、7年連続で世界のトップシェアを達成した。
当時、東芝の製品は高品質の代表格であり、ユーザーの中には「製品でクルミを叩くことができるのは、ノキアの他には東芝ぐらいだろう」と言っていた人もいた。
世界に名を馳せた日本のメーカーは、東芝、ソニー、シャープ、パナソニック、日立、三洋の6社だった。
そして、東芝が半導体業界で脚光を浴びるきっかけとなったプロジェクトがあった。
1970年代に入り、日本政府はアメリカを抜いて世界一になることを目標に、国を挙げて半導体産業を育成する構えを見せていた。
1982年、東芝は340億円を投じて半導体の研究を行い、わずか3年で当時世界最大容量の1M DRAMを開発し、アメリカを抜いて世界一の半導体メーカーとなったのである。
出来があまりにも良かったため、アメリカから攻撃を受た、ここ数年のファーウェイへの攻撃と同じようなやり方だ。

全盛期の東芝は、18万人の従業員を抱え、世界で5本の指に入る半導体メーカーであり、日本で2番目に大きい総合電機メーカーであった。
しかし、好景気と不景気が始まると、拡大と成長がうまくいきすぎて、東芝は次第に原点を見失い、インフレ状態になっていった。
日本の誇り
どのようにしてプライドを失ったのか?
何年もかけて東芝を企業の頂点にまで磨き上げてきたのだから、たとえ一昔前の仕事で食べていたとしても、落ちぶれることはなかったと考えるのが妥当だろう。
東芝は何が悪かったのか、何が100年の歴史を持つ事業を一夜にして破壊してしまったのか。
野心が強過ぎた
東芝の経営危機の始まりは、同業他社による買収案からだった。
1990年代、日本では恐ろしいほどのバブル経済が始まった。
パソコンの性能向上に伴い、DRAM技術も向上したが、バブル経済の日本では、DRAM技術の向上と工場建設のための資金を支えることができず、半導体産業は日米から韓国・台湾への第二次大移動を経験し、サムスン、ハイニックス、TSMCなどの大メーカーが誕生した。
以降、東芝の家電事業は、台頭してきたサムスン、美的、ハイアールなどに分断されてしまった。
しかし、トップに君臨することに慣れ親しんだ東芝は、新興企業に追い越されるのを黙って見ているわけにはいかず、必死になって自己変革を試みた。そして、ついに原子力発電事業に手を染めたのである。
2006年、東芝は、かつてアメリカの原子力分野でコア技術の大半を握っていたウエスチングハウスの買収を目指していた。ウエスチングハウスが独自に入札を開始したとき、提示額は18億ドルであったが、ゼネラルモータースや三菱の悪質な値段の釣り上げにより、東芝は当初の3倍もの価格の54億ドルを投じてウエスチングハウス・エレクトリックを買収したのである。
この54億ドルは、東芝を復活させるどころか、奈落の底に突き落としてしまった。
2011年、東芝が建設した福島原子力発電所の放射能漏れにより、東芝の原子力発電の夢は打ち砕かれた。

人々は原子力の安全性に疑問を持ち始め、世界の原子力ビジネスは大打撃を受け、東芝のそれまでの受注はキャンセルされ始め、多額の資金で買ったウエスチングハウスは赤字が続いていた。
この穴を埋めるために、東芝は「スリム化」に着手し、いくつかの事業を売却し、世界中で数万人の従業員を解雇した。
粉飾決済
東芝の誠実のなさは、意思決定の失敗以上に問題である。
2015年、東芝の西田厚聡氏、佐々木則夫氏、田中久雄氏の3人の社長は、国民の前で深々と頭を下げ、謝罪した。4年前の原子力発電所の漏洩事故ではなく、粉飾決済である。

2009年、東芝は2,800億円の赤字となり、最悪の業績を記録した。
多額の負債を抱えているため、帳尻合わせをしなければならなかった。
2008年から2014年までの7年間で、清潔さと効率性の象徴である東芝には、2248億円の粉飾決済を図った。
不正が発覚した後、東芝は日本政府から74億円の罰金を科せられ、東芝の株価は急落し、市場価値は40%も縮小した。
この財務危機は、東芝の凋落を加速させた。
最も不可解なのは、東芝が原子力事業が巨大なリスクをはらんだ底なし沼であることを認識しておらず、ウエスチングハウス・エレクトリックを切る代わりに、アメリカのシカゴ・ブリッジ・アンド・アイアンの原子力エンジニアリング事業を2億2900万米ドルで買収し、量的拡大を図ろうとしたことである。
この決断は、東芝の厳しい状況をさらに追い込んだ。東芝は買収後になって、シカゴ・ブリッジ・アンド・アイアンの原子力事業が42億ドルもの負債を抱えていることを知った。
東芝がババを引いた形だ。
ただでさえ締め付けの厳しい東芝が、さらに苦境に立たされた。2016年度の東芝の純損失は9657億円で、日本の製造業の歴史上、最大の年間損失となった。
負けず嫌いな日本のものづくり
自らの足を引っ張る
財政的な穴を埋めるために、東芝は生き残りをかけて「叩き売り」の道に乗り出した。
2015年、東芝はフィンランドのKONEのエレベータ事業の株式約2,400万株を8億6,470万ユーロで売却した。
2016年、東芝は家電事業を美的に514億円で、医療機器事業をキヤノンに6,655億円で売却した。
2017年、東芝の年間赤字額は長らく1兆円を超えており、注目のウエスチングハウス・エレクトリックはついに破産申請に耐えられなくなり、東芝はウエスチングハウス・エレクトリックを売却するシグナルを放った。
最も収益性の高かった半導体事業も、東芝にとっては損失を補うための生贄の羊となり、ベインキャピタルに180億ドルで売却された。
それ以来、東芝は一度も復活することができなかった。
2018年には、テレビ事業をハイセンスに129億円で売却せざるを得なかった。東芝を世界一にしたコンピュータ事業も残らず、フォックスコン傘下のシャープに40億円で売却し、株式自体は19.9%しか残っていない。
2020年には、かつて最初のノートパソコンを作った東芝が実際に市場から撤退し、シャープに買収された。
さらに言えば、2016年に巨額の資金に陥ったシャープは、すでにフォックスコンに38億米ドルで買収されている。
もちろん、東芝の急成長に感謝しなければならない企業もある。例えば、中国家電は、東芝から剥ぎ取られた事業セグメントのおかげで、今では活況を呈している。
ただ、ボロボロになった東芝をスリムにするには、売るしかなかったのだ。
かつて18万人の社員と146年の経験を持っていた会社が、ほとんどゼロになってしまったのだ。
結論から言うと、日本の製造業で崩壊したのは東芝だけではない。
東芝の挫折、シャープの売却、三菱の偽装、タカタの倒産、パナソニック、日立、三洋など「日本のカラーテレビ6巨頭」は、以前から赤字、解雇、閉鎖という悲惨な結末を迎えていた。
日本の製造業の失敗には、紛れもない時代の要因がある。しかし、風前の灯火の状態から一蹴されるには、それなりに避けて通れない問題があるはずだ。
日本のエレクトロニクス分野が栄光を取り戻すためには、まず「負けた」ことを素直に認めなければならない。
彼らが「負け」を認めない限り、完全な自己改革はできないだろう。
東芝の3代の社長と8人の取締役が辞任した。
東芝の運命を変えることは誰にもできないが、そこから一つの教訓を得ることができる。
敗北を認めることがカムバックの第一歩だ。
おわり
