中国メディアの記事「食料品を買うにも、トイレに行くにも、国境を越え、ビザの携帯が必要な中国で一番如何ともし難い村」を紹介します。
内容はこんな感じ。
中国の国境線は全長55200キロメートルある。歴史的に見て、中国と近隣諸国との国境のほとんどはボーダレスであり、中国と近隣諸国との間に、近代的な意味での国境はないというのが、古代中国の皇帝たちが尊んだ伝統的な概念であった。
しかし、欧米諸国に主権という概念が導入され、欧米の植民地主義者が侵入してくると、主権のある国境の問題がクローズアップされるようになり、その時になって初めて中国は国境を守る必要性を認識し、国境線の重要性に気付いた。

現在、中国の国境は軍隊によって守られており、不適切な行動は厳しく禁止されている。しかし、食料品を買うにも、トイレに行くにも国境を越えなければならず、そのためにビザを携帯しなければならないという、どうしようもない国境線の村がある。
銀井村(Googleマップが開きます)と呼ばれる中国とミャンマーの国境沿いにある村には「瑞麗市」から「弄島村」につながる一本道があり、典型的な「二国に分断された村」の国境地帯となっている。
中国側は「銀井村」、ミャンマー側は「マンシュー村」
道路の両側はミャンマーと中国で、中国側は「銀井村」、ミャンマー側は「マンシュー村」と呼ばれている。この村に住んでいる人々は、家は中国にあるが、野菜の市場はミャンマーにあるため、食料を買うために海外に出ることになり、知らず知らずのうちに出国していることがある。
村の中央には有名な第71号境界柱が立っており、国の境界線が要塞の中央を通っており「二国に分断された村」の国境地帯を形成している。

瑞麗市とミャンマーの国境線の長さは169.8キロメートルで、65本の境界柱が立つ。「二国に分断された村」は瑞麗市の南西11キロメートルに位置し、中国とミャンマーの国境の71号の境界柱が立っている。中国とミャンマーの二国に属する村が形成しているのが見える。両国の国境の人々は井戸の水を分け合い、一緒に歩き、共に道路を使い、結婚して訪問し合い、同じ民族や習慣を共有している。

その結果、中国のメロンのつるがミャンマーの竹の垣根を這ってメロンを実らせたり、ミャンマーの鶏が中国の住民の家に駆け込んで卵を産んだり、国境の人々が月に何十回も気づかないうちに国境を越えたりすることも珍しくない。
ここにはとても興味深い家に住む一家がいる。寝室はミャンマーにあるが、キッチンは中国にあるため、この家族は、寝るために1日に何回もミャンマーに出国しなければならない。さらにはトイレに行くのですら出国しなければならないため、ビザを持ってトイレに向かう必要があることだ。
現在は、「二国に分断された村」が魅力的な観光地となっており、多くの旅行者が足を運び、少し奇妙な景色を見て楽しんでいる。
また「一校一駅」も銀井村ならではのかなり変わった風景かもしれない。「一校」とは銀井国境警備隊小学校のことで、「一駅」とは徳宏国境警備隊分遣隊の銀井国境検問所のことだ。ミャンマーの教育環境が遅れているため、ミャンマーのマンシュー村の村民は、子供を少し離れた銀井国境警備隊小学校に通わせている。
中国とミャンマーの翡翠(ヒスイ)の国境
実はこの一帯は「中国とミャンマーの翡翠(ヒスイ)の国境」とも呼ばれ、ヒスイの塊が5068箇所あり、総延長が423mで世界で最も高価な国境エリアでもある。中国は黄色で偉大さと寛容さを、ミャンマーは白で純粋さと愛を表しており、1950年6月8日に中国とミャンマーが国交を樹立した重要な日を記念している。

もし機会があれば、この村に来て二つの国の不思議な風景を体験してみたらどうだろうか、きっと今までとは少し違った旅情を感じるだろう。
おわり
2013年の春節、私は雲南省最大の都市、昆明(クンミン)市から西に500キロ離れた保山市のさらに西にある「怒江(ヌージャン)」と呼ばれる川のほとりにある村に向かうため、高速道路をひた走る車に乗っていた。
ルートはこちら(Googleマップが開きます)
運転席にはクンミン出身の友達の父、助手席にはその父の新しい恋人、後部座席には私とヌージャン村出身で、当時クンミンで美容師をしていた少数民族の若者が乗っていた。
旅の目的はその少数民族の若者の実家が運営する珈琲豆農園を見るためだ。途中には大理(ダーリ)と呼ばれる大変有名な古都もあるが、先を急ぐため半日観光に留めた。

当時、中国に住み10年以上経っていたが、中国の西の僻地、ミャンマーとの国境にほど近い村まで来て、驚いたことが一つだけある。それは、どこまで走っても現代的な高架型の高速道路が延々と続いていることだった。
珈琲農園や少数民族の実家滞在については、また別の機会にお話します。