中国メディア「国際大視野」から「中国の貧しい山間部で10年間教育に携わっていたドイツ人青年ルアンク、なぜ6年前に突然姿を消した?」を紹介します。
24年前に中国の人里離れた山間部にやって来たルアンク、彼は、青年時代の大半である10数年という期間を、村に残された子供たちの教育のために費やした。名誉ある賞「感動中国」が中央電視台から贈られるはずだったが、彼は「私が中国を感動させたのではなく、中国が私を感動させたのだ」と述べ、賞を受け取らなかった。
しかし、ルアンクは6年前に忽然と姿を消した。いったいどこに行ってしまったのか、突然の失踪の裏には何があったのか。
これは、時代の記録であり、名場面の回想であり、人生の軌跡を辿る物語である。ルアンクの多彩な人生を追ってみよう。
中国への留学、山間部への来訪
1968年、ルアンクはドイツのハンブルグで教師と主婦の間に生まれ、兄、双子の弟、妹と共に育った。兄はいつも慈善活動に参加し、妹も教育ボランティアによく出入りしていた。ただ弟だけは普通の生活を送っており、のちに起業家としても大成功を収めていた。
ルアンクの学校での成績はごくごく平凡なものだが、両親は最初は彼の成績について口を出さなかった。しかしある時、ルアンクが試験でひどい結果を出してしまい、両親はついに激怒した。両親の非難をきっかけに、まだ若いルアンクは両親との間に不和が生じ、家を出ることにした。
彼は工場に入ったが、物理の基礎知識はもちろん、一般科目も最後まで学ぶ機会がなかったため、簡単な物理知識が仕事で求められたルアンクは、上司に叱られてばかりいた。

当時、ルアンクはヨットが苦手だったが、高い発想力を持っていることを見抜いた上司が、彼を試してみたところ、なんとヨットで好成績を収め、ヨットのコーチになってしまった。
ルアンクの中国への思いは、初めて中国に留学したときに始まった。短期間滞在した後、すぐにドイツに戻ったが、また中国に行きたいという思いはすでに彼の中に根付いていた。2回目の時は、中国にしばらく住むつもりでやって来た。
半年間、広西省河池市東蘭県の田舎で過ごした。畑を耕したり、麦を刈ったり、脱穀したりと何でもやったが、ただ労働するだけではなく、非常に洗練された方法で仕事をこなした。
村人が使っていた足踏み式の脱穀機がかさばって効率が悪いのを見て、自分の学んだ知識を生かして設計し直し、村人の生産性を大幅に向上させた。ルアンクはこの事をきっかけに、田舎の後進性を変えるには、まずは教育から始めなければならないと痛感したのである。

中国の山間部で教鞭を取り、田舎の後進性を変える
1997年、ルアンクは教育の道を歩み始めた。村で家を借り、学校教育を受けていない子どもたちに彼と一緒に登校してもらい、無料で授業をするだけでなく食事も提供した。
しかし、ルアンクは外国人であり「外国人就業許可証」を持っていなかったため、3千元(5万5千円)の罰金が科せられ、ドイツへの帰国を余儀なくされるなど、必ずしも順調ではなかった。
しかし、彼の教育の道はそれだけで終わらず、1999年、再びドイツから広西省に戻ってきた。
彼は、他の先生のように教科書は使わず、独自の方法で子供たちに英語を教えていた。
しかし、「そんなユニークな教育方法は求めていない、生徒たちの成績を高め、進学率が上がればそれで良く、ルアンクの教育哲学は地元教師たちの要望に反している」という理由で解雇されてしまった。
彼が授業で取り入れていたのは、ドイツで開発されたシュタイナー教育だそうです。この教育法の一番の特徴は、社会への適応能力の育成であり、シュタイナー教育を受けた学生は、社会での生活能力が優れていると言われています。詳しくは反中メディア「エポックタイムス」のルアンクについての記事をどうぞ。視点がまったく逆で面白いです。

2003年、ルアンクは電話も道路もない山間部の村に移り、無償を選んだ。彼はまず、子供たちを連れて水道橋を作り、教科書で学ぶことよりも経験を通して学べる教育をしようとした。
弟にスポンサーになってもらい、さらに両親からもらった年間生活費500ユーロを使い、山間部の村に最初の道路を作った。ルアンクは給料をもらっていなかったため、普段は他の人に手伝ってもらい、外国語の資料の翻訳を仕事にしていた。
彼が稼いだお金は学校に寄付して子供たちのために本や文房具を買い足し、彼自身はずっと前に裂けてしまった布製の靴を履いていた。
山間部で暮らすほとんどの子どもたちの両親は都市部に出稼ぎに出てしまい、家には子どもたちだけが残っていることが多かったため、ルアンクは週末になると交代で子供たちに付き添って、料理を作ったり、おしゃべりをしたり、牛の放牧や農作業をしたりしていた。
奉仕の心を持った教師が子供たちの人生を彩ってくれるのだから、子供たちは決して孤独ではない。子供たちにとっても、ルアンクは他の大人たちとは違う、唯一の存在であり、心の支えになっていた。
取材を受けたことで、疑いの目で見られるように
その後、ルアンクの話が注目され、ルアンクを求めて山間部の小さな村に頻繁に人が訪れるようになり、名誉ある賞の「感動中国」に挙げられるも、ルアンクは「私が中国を感動させたのではなく、中国が私を感動させたのだ」と言って辞退した。

しかし、彼のそのような言動が世間に疑念を抱かせてしまい「彼は普通の人なのか」「何の計画を立てているのか」と訝しがる者も少なくなかった。
根も葉もない噂がきっかけで体調を崩してしまったルアンクは、ドイツに帰って療養することになったが、ドイツ帰国中も村の子どもたちのことが気になり、結局、村に戻ってきた。
当初、彼がジャーナリストの取材を受けた理由は「自分一人では村の状況を変えられない」と考えたからだ。彼はジャーナリストの取材を受け、村の現状を発信することで、村の子どもたちの教育環境が少しは改善されると思っていた。

失意のうちに村を去ったルアンク
彼のこれまでの村での活動がテレビ・新聞で報道されると、世間の注目はルワンク個人に集まってしまい、村の子供たちが勉強する内容や学習環境がどのようなものか気にする人はほとんどいなかった。
彼はしばしの間、姿を消すことを決意してドイツに帰ったが、結局、村の子供たちに心配をかけさせることに耐えられず、またすぐに飛行機のチケットを買い、長い時間を過ごした村に戻ってきてしまった。その日、彼は飛行機を降りるとすぐに子供たちに会いに村に行ったが、今度は村が彼を受け入れたくないように感じた。
ルアンクの人気は高く、ファンがルアンクを一目見ようと毎日のように村にやってくるようになり、村の人々や子どもたちの日常生活に大きな影響を与えていたことがわかった。

この時、ルアンクは完全に姿を消すことを選び、その村を去った。その後、誰もルアンクを見つけることができず、彼がどこにいるのかさえ分からず、二度と姿を現さなかった。
しかし、彼の物語は今でも人々の心の中に残っており、中国の農村で教育のために多くの汗を流したこの青年、ルアンクの名前が消え去ることはない。
経済発展した現在でも、都会と田舎では貧富の差が一定以上あり、田舎から都会に出てきて仕事を求める若者が増えている。「山は人を寄せ付けない」という言葉のように、田舎から都会に出稼ぎに向かう人が増えれば増えるほど、田舎に取り残される子供が増える。

以前は、教育にかける予算や教師が不足していたため、村に残された子供たちは良い教育を受けることができなかった。しかし、現在、国は田舎での教育を改善し、ルアンクのように山間部に行って教鞭をとる人も増えている。
山間部の環境は比較的厳しいため、ルアンクは給料をもらわず、ただ子供たちに良い教育を届けるために、自分は節約して敗れたシューズを履いていた。
ルアンクが完全に姿を消したのは、彼の個人的な生活よりも農村部の教育問題に関心を持つべきだという、私たち全員への警鐘だったのかもしれない。農村部での教育が一日も早く改善され、取り残された子供たちがより良い教育を受けられるようになることを願っている。
おわり