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三和の職業斡旋所の思い出

三和ゴッド

中国メディア「資訊沸点」から「70年代生まれ、深圳での期間工の日常:職業斡旋所での騒動」を紹介します。


水田の電器工場を出てから俺の気分はずいぶん沈んでいた。俺とアーチェンは同じタイミングで解雇された。工場は何の事前通知も、補償すらも寄越すことなく突然俺たちを解雇した。資本家はどいつもこいつもクズばかりだ。当時俺は、労働者を守るための法律が存在することなど知る由もなく、労働者にも権利があるなんて思ってもみなかった。

龍華でアーチェンと別れた。彼は龍華の故郷に戻り、俺は大浪の借家に住んでいる4番目の姉と義理の兄のところに向かった。彼らはフォックスコン大浪富弘事業所で働いていた。龍華油松の工場地帯にあるフォックスコンが本社工場で、あの郭台銘会長も普段はそこを拠点としていた。大浪にあるこの事業所は分工場に相当する。義兄の同級生がこの分工場の購買部門で働いており、倉庫係として義兄を紹介してくれたのだ。それから間もなくして、4番目の姉も西郷の電器工場を辞めてやってきた。彼らは浪口村の借家に住んでいて、俺もそこを間借りしていた。

真昼の炎天下に仕事を求めて向かう先が、あの有名な三和の職業斡旋所だ。三和ゴッドなんて呼ばれる奴はまだいなかった。しかし毎日のように通っていると顔見知りもでき、世間話なんかもするようになった。

四川省出身の太った男は、3ヶ月ほど前からここで職を探していて、1日1食しか食べていなかった。以前は150キロを超えていたが、今では130キロを切っているという。

メガネをかけた若者は、自分では大学生と言っているが、卒業証書を紛失してしまい、1ヶ月以上も仕事を探しているが、まだ仕事が見つかっていないそうだ。

デブとメガネは俺よりも悲惨だ。彼らには、頼るべき姉や兄もいなければ、助けてくれる親戚や同郷の仲間もいない。彼らは実家からまっすぐ深圳にやって来て、最初はわりとマシな安ホテルに住み、普通に食事をしていた。しかし1週間も経てば手持ち資金がほとんどなくなり、1日1食に抑え、10元の安宿に泊まるしかなかった。10元の安宿の部屋には20人近くが寝泊まりし、ベッドを確保するには、さらに10元払う必要があった。

当時、三和の職業斡旋所は、龍華公園の向かい側の一角にあった。周囲には、三和の求職者に擦り寄るように小さい職業斡旋所がたくさんあった。小さい斡旋所が紹介する仕事は、雇用者側の審査が甘かったり、雇用者と仲介屋が求職者を騙すケースもあった。中には50〜100元(800円〜1,600円)の高額な紹介料を払わせ、求職者を工場に連れていき、面接を受けさせる仲介屋もある。実際には、工場は誰も採用しないため、全員が面接に落ちてしまう、といった具合だ。

俺も一度だけ騙されたことがある。紹介料の50元を払い、バスで観瀾の紙パック工場に二十数人で向かった。工場の入り口の募集要項には一般労働者5名と書かれていた。午後2時30分、人事担当者が出てきて、面接の申し込みをした。どうしたことか今回は面接までの時間が異様に長く、一人の志願者が呼ばれるまで20分以上かかっていた。20人以上いる志願者全員が面接を終わるまで、いったいどれくらい待たなければならないのか。耐え切れずに去っていく者もいた。俺は外に出ても暑いだけだし、携帯電話を弄りながらじっと待っていた。俺の順番の一つ前はメガネをかけた男で、いかにも物知りな風貌をしていた。なぜ彼が期間工として応募してきたのだろうか。

人事部長も彼が本当に大学生だとは思っていなかったようで、突然、英語で彼に話し始めた。ところが、そのメガネ君は本物だったようで、質問にもしっかりと英語で答えていた。人事部長はまるで古くからの友人と遭遇したかのように、尽きることがない会話を英語でしていた。メガネ君の方もまるで良き理解者と出会ったかのように、涙まで流しながら、流暢な英語を話していた。俺は呆然と二人の英会話を見ながらも、心の中では退社時刻が迫っていることもあり、悶々としていた。

人事部長とメガネ君の英会話が終わったところでメガネ君が面接官に呼ばれて部屋に入っていった。

「Fcuk」

メガネ君の面接は、今やっと始まったばかりだったのだ。ほどなくして人事の女が出てきて、俺たちに「本日の面接は終わりましたので、明日また来てください」とだけ言って去っていった。

何人かは怒り狂ったように「俺たちの貴重な時間を無駄にしやがって」と叫んでいた。

翌日、三和職業斡旋所のすぐ脇にある小さい斡旋所でメガネ君と出会った。

「君は採用されると思ったよ」と驚きながら言うと、メガネ君は「クソみたいなふざけた奴らだ、奴らは元々採用なんてする気なんてなかったのさ」と拳を突き上げながら罵った。

一瞬呆気に取られてしまった。採用して誤魔化すどころか、あれほど堂々とした態度で面接まで行っていたのに、それはつまり、俺たちを最初から騙すつもりだったということか。昨日の労力と50元がまったくの無駄だと、やっと理解できた俺は怒りを抑えきれず「これは詐欺だ!あいつらを見つけて痛めつけてやる!」と無意識に叫んでいた。メガネ君も「そうだ、あの詐欺集団め!斡旋所も詐欺師だ」と叫んだ。

俺とメガネ君が叫んだ途端、周囲の大勢の輩たちも「詐欺師め!」と叫び始めた。「詐欺師! 俺たちの金を返せ!」と。

斡旋所のスタッフが慌てて止めに入ったが、求職者たちの怒りは高まる一方で、人数がどんどん増えていき、やがて小さな暴動と化した。中には物を壊し出す輩もいた。

騒動の中、誰かが通報したらしく、まもなく警察がやってきた。当時、この界隈で働く人たちは特に警察を恐れていて、警察が来るとみんな方々に散っていった。

俺はこの騒動の首謀者の一人だったため、状況が非常に悪いことを察知して慌てて逃げ出した。斡旋所が破壊されたわけでもなく、求職者たちは比較的理性を持って対応していたと思った。警察は簡単な聞き込み調査をした後、非難を込めた捨て台詞を残して去っていった。

その日は仕事を探す気にもなれず、落ち込んだ気持ちのまま借家の部屋に戻った。ポケットに手を突っ込み所持金を確認すると、すでに200元を切っていた。

夜になっても俺の動揺は収まることがなく、大きなプレッシャーを感じていた。義理の姉や兄がいるため、すぐに餓死することはないが、いくら若いとはいえ、人様に食わせてもらっていて情けない限りだ。

そんなことを考えていたら、急に自分の人生が悲しく思えた。俺は小さいころから孟子やら孔子やら難しいことが書かれた書物を読み、法律を遵守して育ってきたが、あらゆる場面で虐げられてきた。それに俺はいつも面子ばかりを考え、損ばかりしてきた。なぜだかわからないが俺は、リーちゃん、アーリェン、さらにはアーチンやアーインのことまで思い出していた。俺と彼らの間に何かが起こってもおかしくないと思ったのだろうか。しかし俺は面子ばかりを気にする男だ、問題など起こるわけもない。俺は急に自分の人生が本当に無意味なもののように感じた。

浪口村で小さな食堂を見つけ、ビール二瓶と料理を三品注文した。もちろん、そんなに食べられるわけもなく、ただ、心の中に悲しさと虚しさが広がり、何かしないとやばいことになりそうと思っただけだ。とても今日2回目の食事などできなかった。結局、飯代にはは60元以上かかったが、この時点でポケットの中の現金は120元となった。

人生で最も悲しい食事の1つで、頭を抱えてものを飲み込んでいるようだった。俺は無表情で食事を終え、そして会計を済ませた。店主は俺を顔をよく見て、丁寧にお金を渡してくれた。

私は食堂を出て、浪口村の通りをあてもなく歩き回った。床屋の前に来たとき、店の前の鏡に自分のボサボサになった髪が映り、ふと「髪を切ってさっぱりしたほうがいいな」と思った。俺は中に入ることにした。

おわり


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