中国メディア「環球情報員」から「千年の習慣が消えた、なぜ日本は旧暦と旧正月を廃止したのか?」を紹介します。

春節(旧正月)を祝う習慣は中国で生まれ、古代中国の力によって近隣諸国にも広まった。現在、春節は中国、韓国、朝鮮、ベトナムの「漢字文化圏」で共通の祝祭日になっている。
朝鮮半島やベトナムでは漢字が社会から退いたが、春節をはじめ、中国由来の祭りは現在も多く残っている。一方日本では今日でも漢字が使われているが、1873年に1000年続いた太陰暦(たいいんれき)が廃止され、太陽暦(現在のグレゴリオ暦)に置き換えられ、以降、日本からは春節を祝う習慣が徐々に消えていった。
太陰暦は廃止されたものの、日本で正月を祝う習慣がなくなることはなく、今でも正月の祝いは日本人にとってとても重要な行事である。暦が変わり、グレゴリオ暦の新年(1月1日)が日本の正月として定着してから約100年半。一方で中国では、現代暦が施行された後も、太陰暦と春節は維持されてきた。
日本で太陰暦と春節が廃止された理由は何だったのだろうか。
漢字文化圏の一般的なお祭り
暦とは、年、月、日などの時間単位の長さを計算する方法だ。現在の暦法は、太陽暦、太陰暦、太陰太陽暦(陰陽暦)の3種類に分けられる。
太陽暦は、太陽を基準として、つまり地球が太陽の周りを1年かけて回っていることを表している。1年はほぼ12ヶ月に分けられ、長さは約365日である。現代のグレゴリオ暦(西暦)は太陽暦の代表であり、イランで使われているイラン暦、ローマ帝国時代に発行され17世紀までヨーロッパで広く使われていたユリウス暦も太陽暦の代表である。
月は1ヶ月の時間をかけて地球の周りを公転しているが、古代人は月面の変化(=月の満ち欠け)を観察することで、1ヶ月が経過したかどうかを判断していた。太陰暦でも1年を12ヶ月に分けるが、約354日しかない。中東で広く使われているイスラム暦は、典型的な太陰暦である。
太陰太陽暦は、太陽の周りを回る地球の自転によって1年の長さを決め、月によって月日を決めている。中国の旧暦は太陰暦として知られているが、実は典型的な太陰太陽暦である。
西暦12月25日のクリスマスなど、暦にはそれに対応した祭日がある。中国の暦の誕生は、古代の農耕社会と密接な関係があり、それが二十四節気を生み出し、中国の春節の習慣に結びついた。
春節の原型は夏王朝にさかのぼる。説文解字によると「年」を「穀物が熟すこと」と定義している。 また、谷粱傳(儒教経典の一つ)では、「すべての穀物が熟すと一年となり、すべての穀物が熟すために一年がある」と「年」の定義がさらに洗練され、「年」が単なる時間の単位から祭りに変化しているのである。
秦と漢は中国史上最も早い統一封建王朝であり、新年を祝う習慣は、漢の武帝が定めた「太初暦」の中で発展し完成されたもので、1年の最初の月を元日としたものである。王朝が拡大するにつれて、この習慣は中央から徐々に周辺地域へと広がっていった。
古代、朝鮮半島は政治的・文化的に中国と密接な関係にあり、中国の暦、春節、中秋節などの祝祭習慣が伝わっていた。隋・唐の時代、半島を支配した新羅は太初暦を参考に、中国の旧暦と多くの祭事を全面的に受け入れて、独自の暦を開発した。

ベトナム北部は10世紀まで中国の一部であり、中国文化が浸透するにつれ、旧暦や春節、中秋節などの祭りがこの地に大きな影響を与えた。
朝鮮半島やベトナムの春節は、地理的な条件から中国の春節とは少し異なる。中国の春節は「旧正月」と呼ばれ、韓国人は白い色で知られ、旧正月の巻物やお金はほとんど白い紙で配られる。昔は旧正月の主食といえば、お餅と漬け物だった。
緯度の低いベトナムでは、春節の習慣は広東や雲南のふたつの地域に似ている。バナナやオレンジを使った5種類のフルーツプレート、ベトナムの生春巻き、ライスダンプリングは、ベトナムの年越しディナーに欠かせないものだ。

日本と中国の結びつきは、中国が隋・唐の時代に権力と文化の栄華を極めた紀元7世紀までは、海の関門のために比較的弱いものであった。日本は中国に使節を送り、日本は中国の文化圏に組み込まれ、春節の習慣も海を渡って日本に伝わった。
西暦692年、中国南朝の劉宋時代に編集された「元嘉暦」が日本に採用され、旧暦と中国の春節の習慣が日本に伝わり、浸透していった。
西暦705年、天皇は宮中で周の儀式にならい、疫病退散のための「追儺(ついな)」の儀式を行った。これは、中国の春秋時代に存在した「大儺(たいな)」を模したもので、本来は太陰暦の新年を迎える準備として、鬼や精霊を追い払い、一年の平穏を祈るものであった。

12世紀になると、宮廷の儀式は途絶え始めた。15世紀ごろに、中国の江蘇省および浙江省の一帯で行われていた「变宝豆」という習慣が日本に伝わり、儀式はさらに簡略化され、日本の庶民のほとんどが妖怪や霊を追い払うための豆まきに変え、現在に至っている。

中国人が春節に灶神(ザオシェン)などの神を祭るように、古代の日本人も春節には神社や神宮に参拝し、加護を祈願した。
日本に稲作が伝わると、労働生産に基づく藩の結びつきが強くなった。春節には家族が集まり、先祖を敬い、家族の絆を分かち合った。日本書紀によれば、「今夜は大晦日、……家族や使用人が互いにもてなし、古いものを見送り、新しいものを迎える」とある。
12世紀末以降、武士階級が国家を支配するようになり、京都の天皇家の宮廷による内政はほとんど形だけのものとなった。有力者である源頼朝は、天皇に自分を大将軍に任命するよう迫り、鎌倉幕府を開いて日本を統治するように仕向けた。
政治的な混乱はあったものの、日本では春節が徐々に定着していった。中国の風習が現地でアレンジされ、日本の春節になったのである。
一般に、春節の風習は古代中国の強い国力に基づき、文化的ソフトパワーの表現として近隣諸国へ輸出された。日本はベトナムや朝鮮半島に比べ、中国との関係が薄かったため、中国の風習をすべて受け入れてきたわけではないが、旧暦を忠実に守り、春節の地位は揺るがないものであった。7世紀ごろから19世紀まで、春節は1000年以上にわたって日本社会に影響を与え、古代日本社会の発展に立ち会い、動かしてきたのだ。
明治維新と日本の春節(旧正月)の放棄
1573年、日本の戦国時代の動乱の中で、日本史上二つ目の幕府であった室町幕府が倒れた。各地に分かれていた大名たちは、日本を統一するためにさらに大きな戦争を繰り広げた。
1582年、ローマ教皇エウジェニオ13世がグレゴリオ暦(現在の西暦)を導入し、ローマ帝国時代に施行されていたユリウス暦は誤差が大きくなったため、廃止された。その後、欧米諸国の台頭とともに、徐々にグレゴリオ暦に切り替わっていき、世界中に広まっていくことになる。
1603年、徳川家康は江戸に幕府を開き、100年にわたる日本の戦国時代に終止符を打った。海を越えた大陸の中国では、1644年に明と清の王朝が交代し、白山黒水(黒竜江省あたり)の満州族が中華帝国の主人となった。
862年以降、日本は唐の時代に中国で編集された「宣明暦」を17世紀までの約800年間に渡って使用するようになった。1685年、天文学者である渋川潤海氏が日本史上初の「国産暦」である「貞享暦」を編集した。
17世紀後半、中国、日本、韓国は、反乱や外敵の侵入を防ぐために鎖国政策をとっていた。ヨーロッパ諸国が世界貿易を模索した一方で、東アジア諸国は外部に門戸を閉ざし、次第に発展が遅れていった。
貞享暦の後、宝生暦、寛政暦と立て続けに編集された。1844年、西洋天文学の最新の成果をもとにした新版の暦が発行された。苦労して完成させたカレンダーは、わずか29年の使用でゴミ箱に押し込まれた。
1854年2月13日、旧暦の新年16日目、まだ旧正月のお祭り騒ぎは完全に消えておらず、江戸の町には喜びと楽しさが残っていた。アメリカの提督マシュー・ペリー率いる黒塗りのアメリカ軍艦数隻が突然、江戸湾に姿を現したのである。ペリーは武力を背景に、日本に不平等条約である「神奈川条約」を結ばせた。その知らせを聞いたロシアなども日本に狙いを定め始めた。日本が植民地化される、そんな雰囲気が漂い始めていた。
日本の一部の藩の博識ある武士たちは幕府の腐敗を見抜き、徳川幕府を打倒することを決意していた。幕府と政治的に対立していた長州藩や薩摩藩は、反幕府派の牙城となった。鳥羽・伏見の戦いで将軍軍が敗れ、徳川幕府は倒された。鳥羽・伏見の戦いで将軍家軍を破り、徳川幕府は滅亡した。
欧米の侵略の脅威から、日本では明治維新が起こり、同時期に中国では洋務運動が起こった。しかし、洋務運動は清朝の封建的な制度には触れず、改革は軍事などの分野に集中し、明治維新のような広さや深さはなかった。
一定の権力を掌握した明治天皇は、政治、軍事、文化、教育など多方面に及ぶ改革に極めて協力的であった。日本では封建的な秩序が崩壊し、軽工業などの生産が盛んになり、社会は次第に自由になっていった。

1872年11月21日(明治5年10月1日)、この年の5月に設立された頒暦商社が公式カレンダーの販売権を取得し、主要都市で新年のカレンダーを販売していた。明治維新から4年以上経った時でも、日本人は旧暦を使い続けていた。
太政官権大外史の塚本明毅氏によると、明治維新の当初、国の財政は非常に厳しかったという。限られた資金をさまざまな改革に充て、ただでさえ貧しかった国庫は枯渇寸前であった。
徳川幕府の時代には、ほとんどの武士が身分に応じて「年貢米」を受け取っていたが、明治維新後、武士階級はその特権を奪われた。明治新政府は、こうした職業軍人をなだめるために、給料は相変わらず米で支払い、「月給制」として改めた。
塚本明毅氏によると、旧暦では武士や公務員には13カ月分の月給が随時支給されることになっていた。そこで、カレンダーで特に問題となるのが「うるう年」である。
年は整数ではないため、どちらの暦でも時間の計算で余りが出てくる。中国の旧暦は閏月(うるうづき)を利用して時間を構成しており、数年に一度、13ヶ月の月がある。太陽暦では、グレゴリオ暦の2月29日のように、個々の月に1日を加えて時間を調整する「うるう日」を採用しているものが多い。 この場合、月数は増えず、ただ12ヶ月分の支払いだけで済むことになる。
明治天皇はこの提案を受け入れ、旧暦が終わろうとしていることを利用して、その年の12月2日(旧暦)に発表を行い、天保暦(つまり旧暦)を突然廃止した。その翌日、つまり太陽暦の12月3日から1月1日に日付が変わった。
これにより、公務員(武士階級を含む)の13ヶ月目の給料が節約されただけでなく、旧暦12ヶ月目の月給さえも「月の2日間分だけでは給料を払わない」という口実で政府に拒否されたのである。
旧暦が突然廃止され、人々は驚き、公式カレンダーの発行会社は大損し、売った旧暦カレンダーは紙くずの山と化し、新しいカレンダーを作らなければならなくなった。明治天皇は、商人たちの損失を補うために、公式カレンダーの販売権の期限を10年延長した。

近代日本の重要な啓蒙思想家である福沢諭吉は、政府の新暦を聞いて、病気にもかかわらず「改暦弁」を書いた。そして、日本がより豊かで強くなり、アジアからヨーロッパに進出するという夢を実現するために、暦を変えることの重要性を説いたのである。
1873年、財政難を解消するべく、数千年続いた旧暦が正式に廃止された。旧暦で行われていた旧正月もなくなり、すべての祝日が新暦で再定義され、もともと旧正月の初日が新年だったが、1月1日が新年となった。
しかし、千年来の習慣を一度の勅令で変えることは不可能であり、日本人は長い間、旧暦で祭りを行っていたため、それに対応する旧暦の日付が公式カレンダーの下に記されていたのである。旧暦は古くから使われていたが、明治維新が進み、「脱亜入欧」が日本社会のコンセンサスとして広まると、旧暦は次第に廃れていった。
1895年、日本は日清戦争に勝利した。清朝は戦争に負けただけでなく、朝鮮に対する宗主国も廃止された。日本人の自尊心はさらに高まり、東アジアの後進国との関係を断つことが、日本社会の強いトレンドとなった。
1898年、日本は暦の調整を行った。日本では1873年に太陰暦が廃止されて以来、20年以上にわたって太陽暦が施行されていた。 しかし、日本で発達した太陽暦は、欧米で一般的に使われているグレゴリオ暦と完全に一致するものではなかった。
1898年5月11日、明治天皇は勅令第90号を発し、日本の暦を西暦と同じグレゴリオ暦に改めた。 日本史に残る「閏年ニ関スル件」である。
1910年、日本は朝鮮半島を併合した。同年、春節を祝うことは多くの日本人にとって後進国の象徴と見なされたため、日本の公式カレンダーでは完全に廃止され、グレゴリオ暦で正月を祝うのが日本社会の新常識となった。
春節を祝う習慣が残っていたのは琉球列島と一部の辺境の村だけで、当時大和民族が住んでいなかった日本占領下の朝鮮半島と台湾では、ほとんどが春節を祝うことにこだわっていた。
第二次世界大戦での敗戦後、日本社会はアメリカの変容と影響力を受け入れ、春節の習慣はさらに薄らいでいった。中国や韓国などの近隣諸国も、旧暦を残しつつグレゴリオ暦を採用し、春節の習慣は継続した。一方日本は経済の隆盛とともに、日本的な正月を祝うスタイルが徐々に形づくられていった。
日本の正月は、本来の春節の新年からグレゴリオ暦の新年に移行したもので、現在では旧正月を春節と呼び、1月1日に正月(新年)を祝うのが日本人の総意となっている。
おわり
