20年近く前、当時の同僚で、北京訛りの中国語を話す大阪人とよく遊んでいたが、ある日彼が、「日本」を中国語のピンインで発声してみて、と言ってきたので、私は自信を持って「イルポン」と発音したところ、「そりゃアレだ、韓国語だ」と爆笑されてしまった。
そんな彼は私に、中国語を学ぶ方法を色々と教えてくれたが、そのうちの一つに、漫画「ドラえもん」の中国語版を読む事でした。
当時「ドラえもん」の漫画本は、ローソンなどのコンビニでも15元ほどで販売されており、しかもおおよそのストーリーや台詞はすでに頭に入っていたため、中国語の単語を覚えるには確かに良い方法の一つだったと思います。しかしながら、漢字にピンインが振られているわけではないので、いくら漫画を読んでも発音は上達しませんでした(笑)
今回は中国メディア「虎嗅」から「先日、藤子不二雄Ⓐが亡くなったが、ドラえもんは藤子不二雄Ⓐの作品ではない」を紹介します。
2022年4月7日、神奈川県警は同日8時40分頃、日本の著名な漫画家、藤子不二雄Ⓐ(本名・安孫子素雄)氏が川崎市の自宅で死亡(享年88歳)しているのが発見されたと報道機関が発表した。
藤子不二雄Ⓐの名前を出せば、80〜90代生まれの方の中には、子供の頃に読んだ幸せな漫画「小忍者(忍者ハットリくん)」を思い出す人も多い事でしょう。
漫画をあまり知らない人にとっては、名前を見ただけだと「ドラえもん」の作者である藤子・F・不二雄(本名:藤本弘)と混同してしまうかもしれません。
私が初めて「小忍者」を見たのは小学生の時でしたが、特に面白く、ドラえもん以上に面白かったため、授業中もこっそりと読んでいました。

実は、藤子不二雄Ⓐと藤子・F・不二雄は、創作活動の初期には「藤子不二雄」というペンネームを共有していたのですが、その後、それぞれのスタイルが明確になると、袂を分かつことになりました。
ドラえもんは、藤子・F・不二雄の作品で、藤子不二雄Ⓐが関与しない独立した作品です。もし、あなたがまだこの2つの違いについて混乱しているのなら、この写真を見てみてください。


藤子不二雄Ⓐは中国の一般人にはあまり知られていませんが、日本人にとってはどちらも「伝説の偉大な漫画家」です。
それだけに、彼の死は多くの人に「一つの時代が終わった」と嘆かせました。
藤子不二雄Ⓐ、聞き覚えのある名前だけど、よくよく聞いてみると何も知らない。一体なぜ時代を象徴しているのか? そして、どのような時代を象徴しているのでしょうか。
こうした疑問は、この2年間、中国の若者たちが注目している古いマンガに行き着くのではないかと思います。

この漫画の名前は「劇画:毛沢東伝」。
「劇画」は、漫画の歴史の発展における一つの画期的な出来事でした。
藤子不二雄Ⓐがこの作品で用いた「劇画」スタイルは、1950年代から1970年代にかけて、マンガ業界が読者層の拡大を狙って導入した新しいトレンドで、「子ども向け」という固定観念を脱却するための試みだったのです。
表現方法としては、それまでの少年漫画スタイルから、より大人向けの題材を使い、映画のような映像表現で、よりリアルになりました。

左から1番目が「少年漫画風」、左から4番目が「劇画風」
手塚治虫によれば、日本の近代漫画は戦後に始まり、読者の第一世代は「団塊の世代」(戦後のベビーブーマー、一般的には1946年から1954年の間に生まれた子供と定義)の就学と同時期であったそうです。
当時、日本の家庭はどこも大学受験のための準備を整え、子どもの進学のために漫画を排除させようとしていたが、それが若者層への漫画の普及、ましてや後に漫画黄金期と呼ばれる時代の到来には影響を与えることはなかったようです。
1967年は、戦後のベビーブームが終焉を迎えた年。76万人の受験生が生まれ、「日本史上、最も大学進学が困難な年」と言われた年でもあります。

この写真は、1967年の正月の塾の様子、帰省もせず寝る間も惜しんで大学受験に備える学生たち
だからこそ、ベテラン漫画家の藤子不二雄Ⓐが、より多くの人に漫画を好きになってもらい、最終的に漫画が悪者扱いから脱却できるよう尽力したことに、多くの人が感謝しているのです。

一方、毛沢東などを題材とすることで、日本の若い世代の国家や社会の問題に対する情熱が見えてくる部分もあります。
1960年代から70年代にかけて、藤子不二雄Ⓐは「エドガー・スノウ」の著書「中国の赤い星」を読みました。
毛主席や赤軍兵士のドキュメンタリー的な描写に、藤子不二雄Ⓐは夢中になって読み、「長征の章」では、それを漫画で描き起こそうと決意したのです。

藤子不二雄Ⓐは、この作品を完璧に見せるためにいくつもの資料を読み漁りました。結局、週刊漫画サンデーでの連載では、毛主席の生い立ちと長征という史実をメインコンテンツに選びましたが、そのテーマ選びについて、彼はこう語っています。
毛沢東の幼年期は荒れ狂い、苦難の連続であったが、新しい中国を建設するという大きな理想とロマンを捨てなかった……」 彼は強力な革命戦士であり、野心的なロマンチストでもあった。いずれにせよ、彼は当時の英雄であった。
この作品では、階級的抑圧や一族や国の没落を句にした情熱的な青年の思いに触れるだけでなく、彼の生い立ちとともに清末・民国時代の中国の庶民の苦悩や悲しみを知ることができます。

無力感、惨めさの感情が天安門に集まったとき、あらゆる苦難の末に天安門に「中華人民共和国、本日建国」の文字が浮かび上がる。 は、特に動きのあるビジュアルです。

藤子不二雄Ⓐが毛沢東の物語を選んだのは、当時の日本の若者たちの「よりよい世の中を作りたい」という志からでした。
1950年代以降、日米安保や国内情勢に対する学生たちの不満の高まりから、政府との激しい衝突が頻発し、その中で革命や革命家という要素がその世代の日本人の共通の記憶となった。
「先生は戦争が嫌いなのか?それを嫌って、反対の声すら上げないとは何と情けない」「この二つは何の関係もないだろう」「関係あるんだ!アメリカ軍は我々日本の港を使って、人を殺しに行っているんだ」「それはあなたが考えることではありません。大学を出て就職し、結婚して子供を産んで、成熟した大人になってから意見をいいなさい」──村上龍「69 シクスティ・ナイン」
藤子不二雄Ⓐは、身の回りにある社会問題を描くことを常に念頭に置いていました。
亡くなる2年前、「孤独な老人をテーマにした新しい漫画を作りたい」と言っていたそうです。
「公園には定年退職した老人がたくさんいて、友達も少なく、気力もない」「でも戦後の日本の経済復興を担ってきた人たちなので、とても寂しいですね」
日本のネット上では、「藤子・F・不二雄は天才」「藤子不二雄Ⓐは秀才」と言われることが多いようです。
この考え方は、藤子不二雄Ⓐ自身の作品にも表れており、自身の漫画家としてのキャリアを基にした物語「まんが道」では、小学5年生から藤子・F・不二雄に出会った経験を語っています。
幼少期の漫画コンクールで、藤子・F・不二雄が発案し、藤子不二雄Ⓐがどうしても思いつかず、真似をした漫画があるそうです。この経験で、藤子・F・不二雄の才能に比べれば、自分は確かに凡庸な存在であることを思い知らされたそうです。

藤子・F・不二雄のこの作中での名前は、天才(才能)を意味する「才野」です。
漫画家人生において、自分は天才ではなく「少し秀でた凡人」、あるいは「単なる凡人」であると感じていたのかもしれない。
しかし、もしそれが本当なら、藤子不二雄Ⓐと藤子・F・不二雄の話は、まさにそれを証明していると思うのです。
「天才」ほどではなくても、多くの「秀才」が努力することで、世界を変えることができるからです。
おわり