上海に20年近く住んでいると、中国語がそれなりに上手な日本人にはたまに会うこともあるが、上海人よりも普通語が上手く、しかも重度の北京訛りの中国語(北京語)を話す日本人は後にも先にも彼だけだ。
私と彼は、とある日系の零細企業に同じ日に中途入社した、同期みたいなものだった。年齢も同じだったため、仲良くなるのにさほど時間はかからなかった。
当時、中国語が全く話せなかった私でも彼の中国語が上海人や他の日本人が話す中国語とかなり違うことはすぐにわかった。彼が話す中国語は、いわゆる北京語というやつだ。彼は大阪の高校を卒業後、親の薦めで、ハルピンの大学に入学し、大学3年生から北京にある中央民族大学に編入した。ハルピンの厳しい寒さに耐えることができなかったそうだ。
私は彼から多くのことを学んだし、彼も労を厭わず、中国素人の私に中国での生き方を教えてくれた。
ある日の午後、私たちは市バスに乗って少し離れた場所にある会社を訪問することになった。当時、上海の地下鉄は三号線が通ったばかりのころで、市内の細かい移動は路線バスの方が圧倒的に便利だった。このため、市内を走るバスは常に満員で、どのバス停も人でごった返していた。

バスに乗れるかどうかは、バス停での待機時のポジション取りや、来たバスの停車に合わせて動き出すタイミングが重要になる。少しでも見極めを間違えれば、目の前のバスには乗れず、次のチャンスバスが来るのを待つことになる。
我々が乗るべきバスがやってきた。バスは私の前を通り過ぎ、10メートルほど離れて立っていた彼の目の前で停車した。大勢のバス待機客が、我先にと前方ドア付近に集まっていたが、先頭は彼だ。
プシューという気の抜けた音とともにドアが開いた。その瞬間、彼は素早くドア入り口の両脇にある棒をグワっと両手でつかむと、「〇〇、こっちだ、乗れ!」と叫んだ。私は、彼が他の大勢のバス待ち客を全身でブロックしている間に、彼の腕の下を潜ってバスに乗り込んだ。

バスに乗るとはこういうことなのかと、とても勉強になった。
また別のある日、私たちは街の自転車屋に来ていた。彼が街中での移動は自転車が一番だとしつこく言うため、買うことにしたのだ。エレベーターにも入る小さめの、当時としては最先端な折りたたみ自転車が良さそうだった。

店主に値段を聞くと450元と即答が返ってきたが、彼は待ってましたとばかりに交渉を始めた。
「無名ブランドの自転車に450元はないだろう。俺が見る限り、250元が妥当だ」
その後、数分間の言い争い交渉が続いた末にどうやら350元で決着したらしく、彼は私に「350元で決まりだ」と得意げに言った。
店主がしぶしぶ現金を受け取り、自転車を組み立て始めたのを見て、彼が私に言う。「〇〇、絶対に言い値で買っちゃダメだ。相手が500元と言ったら、こっちは半分の250元からスタート、これが基本だよ」

350元でオシャレな自転車を手に入れた私はうれしくなり、このまま浦東まで行こうと彼に提案した。外灘の船着場まで行き、渡し船で対岸に渡り、浦東エリアをさらに東に向かって自転車を漕いでいると、急にペダルに異変を感じるようになった。
ペダルがしっかりとギヤクランクに固定されていなかったのか、しばらく異変が続いた後に、ペダルが脱落してしまった。彼は「あの店主、値切った腹いせにやりやがったな!」と言っていたが、浦東のまっすぐ延々と続く道を片ペダルだけで10キロ以上漕ぐことになるとは思わなかった。

彼から学んだ値段の交渉術は、その後の私の中国生活を一変させたといっても過言ではない。
それからしばらくして彼は、蘇州オフィスに転勤することになり、一緒にいる時間がほとんどなくなってしまい、私も数ヶ月後にはその会社を辞めたため、以降、彼と会うこともなくなった。
私が20年近く中国で大きな危険に遭うこともなく生きてこられたのは、彼というメンターに出会えたからに他ならないと今でも思っている。