中国メディア「澎湃新聞」から「中華系女性市長誕生、政治的な官僚機構のアウトサイダーであった呉弭(ミシェル・ウー)がボストンの権力中枢に入る」を紹介します。
2021年11月2日アメリカ、ボストンで開催されたボストン市長選挙で、中華系アメリカ人のミシェル・ウー候補が当選した。
「私の両親が台湾からアメリカにやって来た時、彼らは英語を話すことができず、お金もほとんど持っていませんでした」ボストン市議会議員だったミシェル・ウーは、9月中旬にボストン市長選の予備選で首位に立った後、支持者に向けて熱弁をふるった。「私の両親は、自分の娘がボストン市長選に出馬するなんて想像もしていなかったでしょう」
1ヶ月半後の11月2日、彼女は200年の歴史の中で初の中華系女性としてボストン市長に当選した。「ボストンを包容力のある街にして、誰も市外に追い出されることなく、ボストンを故郷とするすべての人々を歓迎し、家賃を手頃な価格に抑え、そしてグリーン・ニューディールを実施していきます」 ミシェル・ウーはこの日の勝利演説でこう語った。
36歳の彼女にとって、家族と政治の間には非常に特殊な結びつきがある。彼女は家族の中で、生まれてから20年間、政治の話を一切しないようにしてきた。なぜなら、彼女の頭の中では、政治は腐敗であり、恐怖であったからだ。「人は目立たないようにして、一生懸命勉強して、家族を支えるために安定した高収入の仕事に就くべきだ」と両親から教えられてきた。だからミシェル・ウーがハーバード大学の敷居をまたいだとき、彼女は民主党と共和党のどちらを支持すべきかさえわからなかった。

そんな不遇な家庭環境で育った彼女が、政治的かつ社会的システムの見えない壁を乗り越えるきっかけを持ち、20代前半で、完全なアウトサイダーからボストンの権力の中枢に移り、建設的な政策で政治を変えようと決心した。
2013年、彼女が28歳の時、中華系女性として初めてボストン市議会議員に選出され、2016年には全会一致で市議会議長に選出され、マイノリティ女性としては初の役職に就いた。今、彼女は再び性別や民族の壁を取り払い、アウトサイダーとして、独自の社会的かつ文化的なアイデンティティを持つ都市の市長になろうとしている。
若き一家の大黒柱
彼女が生まれたとき、両親は子供たちがより良い未来を送れるようにと、台湾からアメリカに移住してきたばかりだった。
当時、ミシェル・ウーの父親である呉函(ウーハン)は、化学エンジニアとしてイリノイ工科大学の大学院への進学を目指していた。しかし、彼と妻の玉敏(ユーミン)は英語がほとんど話せなかっため、アメリカで生まれ育った長女のミシェル・ウーは、4、5歳の頃から通訳として政府機関への対応や書類の記入を手伝っていた。
シカゴ郊外の高校に通っていたミシェル・ウーは、すでに大学進学準備コースを受講し始め、数学チームやフラッグガードに所属し、SAT(Scholastic Assessment Test)やACT(College Entrance Test)で満点を取っていた。卒業式の共同演説では、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」のピアノソロを披露し、スタンディングオベーションを受けた。

ミシェル・ウーの妹であるシェリル・ウーは、両親は私たちに幅広い趣味を持つように勧めてくれたが、自分たちの能力以上のことを学ぶことは許さなかったと振り返る。もちろん政治は対象外であり、家族が食卓で政治の話をすることは一度もなかった。
彼女の両親にとって、政治家はリスクの高い職業であり、彼女には医学を学び、「一連の試験に合格して様々な学位を取得し、そこから安心して幸せな人生を送ってほしい」と考えていた。その後、両親の希望でハーバード大学に進学したが、どの政党にも属さなかった。
また、ハーバード大学で経済学を学んでいた時に、ミシェル・ウーの両親が離婚し、家族がバラバラになってしまった。郊外に住んでいた彼女の母親は、テレビに向かってよく怒鳴ったり、奇怪な脅しをかけられたと911に通報するなど、異常な行動をとるようになった。
新卒でボストン・コンサルティングへの就職が決まっていたミシェル・ウーは、厳しい現実を目の当たりにする。妹のシェリル・ウーから「今すぐ家に戻ってきてほしい」と告げられたからだ。
急いで実家に戻ったミシェル・ウーは、母親の精神状態にショックを受けた。母親は雨の中、スーツケースを持って立っており、秘密の会議のために運転手が迎えに来てくれると思っていた。母親はミシェル・ウーの顔をよく見て、彼女がロボットではないことを何度も確認した。
その年、22歳だったミシェル・ウーは、一家の長となり、家族全員の面倒を負うことを余儀なくされた。母親が統合失調症と診断され、彼女は母親を精神科に連れて行き、さらに、すべてが元通りになったら母親に任せるつもりで小さなカフェを開き、家族の中で一番下の妹(11歳)の後見人となり、最終的には法定後見人の申請をした。
「妹の保育参観で学校に出向くと、他のご両親が、ミシェル・ウーはいつこの子を産んだのだろう、と思っていたのを覚えています」当時、一番下の妹の学校で副校長を務めていたトーレスは、ボストン公共ラジオ(WBUR)に「ミシェル・ウーがとても小さい頃、彼女は親としての振る舞いを理解していました」と振り返っている。
ミシェル・ウーは、この経験を人生の岐路と捉え、両親が築いた人生の脚本を捨てた。一家の主となった後、政府機関でのお役所仕事に不満を感じ、ハーバード・ロースクールに入学して法律博士(J.D)の学位を取得し、シカゴから母と妹を連れてボストンで一緒に暮らすようになった。
「政治に関わらない」の消滅
家族の変化や20代前半に経験した政府に対する苦い思い出から、政治的にアウトサイダーだった彼女は、ボストンの権力政治の中枢に引きずり込まれた。
政治家になる決意をしたことについて、ミシェル・ウーは今年7月、Politico(ポリティコ)のインタビューで、20代前半に経験した家族の危機が、政府とのやりとりの苛立ちや葛藤を感じさせたと語っている。アメリカの社会保障制度の複雑さ、姉妹の就学援助を得るための煩雑さ、当時の制度の下で家族を維持するための小さなビジネスにおける問題などを挙げた。
「援助や資源が必要であるにもかかわらず、越えなければならない見えない壁があったことに、私は心底うんざりしていました」インタビューの中でミシェル・ウーは、これらの経験が「政治や政府に関わらないようにしようとしていた彼女の幻想を打ち砕いた」と語っている。
その一方で、自分と同じような苦労や痛みを経験している家族がボストンにたくさんいることもよく理解していた。若くして一家の主となることを余儀なくされた彼女が、再び人生の岐路に立ったとき、政治の道を選ばずにはいられなかったのである。「より多くの家族のために障壁を打破するチャンスを得たとき、私が責任を負わなければならないと考え、無意識に動き出しました」
ミシェル・ウーの政界進出を語る上で外せないのが、民主党のエリザベス・ウォーレン上院議員だ。ウォーレンこそが、ミシェル・ウーの才能を見い出し、政界に引っ張り上げた人物である。
当時、ハーバード大学で教鞭を執り、契約法を教えていたウォーレンは、ミシェル・ウーが自分のオフィスに会いに来た時のことを今でも覚えている。ウォーレンはニューヨーク・タイムズ紙に、ロースクールの最初の学期に、学業が十分にできなかったことを謝りにオフィスに来たが、ウォーレンはその時、彼女の異変に気づかなかったと振り返っている。彼女は自分がベストを尽くしていないと考えており、無礼なことを言っているわけではないことを理解してほしいと思っていました。

その後、2人はじっくりと語り合い、ミシェル・ウーは生前の母と妹の介護の経験を語った。ウォーレンは、ミシェル・ウーがロースクールで勉強しながら、家族の面倒を見ているという、25年間の教師生活で出会ったことのない事実に驚嘆せざるを得なかった。
このオフィスでの心のこもった会話が、ミシェル・ウーとウォーレンの親密な関係の始まりだった。ロースクール3年生の時、ウォーレンは上院議員選挙に初出馬した。ミシェル・ウーはウォーレンのキャンペーンに関わっており、ポリティコによると、ボストンで戸別訪問や電話で投票を募った最初の人物の一人だったそうだ。選挙戦の後、ミシェル・ウーは、これまで政治から排除されてきたコミュニティとの活動を始めた。
元ボストン市議会議員のジョン・コノリーは、ミシェル・ウーを「現場の政治に対する並外れた天才的な理解力はもちろん、彼女は、ボストンの街の端っこの事、例えば、ロスリンデール(ボストンの居住区の一つ)の6つの社交場にいるアルバニア人について語ることができるほど高い記憶力を備えています」と説明している。
今年の夏に行われたボストン市長選で、他のリベラル候補ではなくミシェル・ウーを支持する理由を聞かれたウォーレンは「彼女は家族だから」と答えている。
アウトサイダーの改革への挑戦
ミシェル・ウーがボストンで政治家としてのキャリアをスタートさせたとき、ボストンは有権者の若年化、高学歴化、政治の左傾化という転換期にあった。
ボストンを先進的な政策の「実験場」とするための彼女の提案は、都市開発契約をボストンのアフリカ系アメリカ人が経営する企業に再分配すること、警察の組合の力を弱めること、公共交通機関の料金を一部免除すること、家賃管理を一部復活させることなど、不動産関係者にプレッシャーを与える大胆な改革案だった。
「市政府で10年近く働いてみてわかったことは、行政で一番簡単なのは何もしないことだということです」
「もし変化をもたらそうとすると、現状維持を望む人たちに影響が及ぶため、彼らは不安に思ったり、実際に損失が発生することもあるでしょう」ミシェル・ウーは締めくった。
「クラスメイト全員がミシェル・ウーはのことを話し始めました。「ボストンのエマーソン大学4年生のベンジャミン・スウィッシャーさん(22歳)は、ニューヨーク・タイムズ紙に対し、ミシェル・ウーの市長選への立候補は「若者にもできること、私たちにはアイデアがあり、この国を前進させ、新しいアメリカを作ることができることを示している」と語った。
一方で市議会議員を4期務めたミシェル・ウーは、実質的な市政府の問題に焦点を当てていることで評判を得ており、些細な問題をあつかう会議にも頻繁に出席している。ボストン・グローブ・メディアのインタビューでは、彼女自身が、街の下水道や道路陥没の問題を解決するなど、細々とした公共の仕事に取り組むことを楽しんでいると認めている。彼女に言わせれば、小さなプロジェクトの一つ一つが、都市の発展のビジョンを実現するための鍵となるそうだ。
「彼女は非常に几帳面で合理的な性格の持ち主で、まるで、市長になることを目標にしたら、ToDoリストを1つ1つクリアしていくかのように進めます」活動家で元マサチューセッツ州交通局職員のクリス・デンプシーは、ニューヨークタイムズ紙に「彼女は公の場に姿を現し、問題に対処し、関係者を集め、会話を始め、一貫した態度を示している」と語っている。
WGBHラジオのコメンテーターであるピーター・カッツィスも、ミシェル・ウーの市長選出馬は「よく考えられた計画的なものだ」と同意している。カッツィスは「彼女はこの役職を得るために大活躍し、長期的な計画を持っていたし、これは他の誰にもできないことだった」と付け加えた。
しかし、ミシェル・ウーが導入しようと考えている先進的な政策が、かなりの困難に直面することは予測できる。評論家は、彼女が約束しているのは実現できない変化であり、家賃管理のような政策は市長の権限外であり、州政府機関による対応が必要であると述べている。
「ミシェル・ウーは毎日飽きもせず非現実的なことばかり話しています、まるで絵に描いた餅です」 今回のボストン市長選挙で、現実的な中道主義の立場をとっているのがもう一人の候補者であるアニッサ・ジョージだ。評論家は、たとえミシェル・ウー議員が選挙に勝ったとしても、彼女が市長の任務を果たせるとは限らず、彼女が進めるアジェンダは、市の開発部門から複数の逆風を受けることになるだろうと警告している。

ボストンの伝統的な政治家の目には、彼女は「アウトサイダー」というレッテルが貼られている。確かに、彼女自身が認めているように「私のような人間が権力を持っているのは、子供の頃から見たことがない」と言う。子供の頃、テレビで見た中華系アメリカ人女性は、フィギュアスケートのミシェル・クワンだけだった。NBCのインタビューで彼女は、家族がしばしば人種差別を経験し、両親はそれを無視しようと、頭を下げて懸命に働いていたと振り返った。
「今こそ、私たちが声を上げ、見えない中華人のサイクルを断ち切る時です」 ミシェル・ウーはそう確信して声を上げた。
同様に、ミシェル・ウーは市長として直面するであろう課題や困難を理解しているが、彼女は22歳という早い時期に一人で家族の長となることを学んだ。彼女は、母がいつもくれたアドバイスをよく思い出すが、口に出すことはない。
「帮助他人,反思政府」
おわり